令和4年(2022年)8月21日、モンゴル首都ウランバートルにて日本より輸送されたお神輿が上がりました。
本記事では、両国の友好を願って日本人とモンゴル人の協力によって行われた渡御の様子を報告します。
モンゴルと日本の歴史的なつながり
「日本男子と生れて屍を戦野に晒すは固より軍人の覚悟であります」
モンゴル首都ウランバートル郊外にある日本人慰霊碑にある展示施設の壁にかけられた遺言書の最初の一文です。
かつてモンゴルは日本とは敵国でした。外交関係が樹立されたのは1972(昭和47)年。
外交関係樹立50周年となる2022(令和4年)、両国の友好を願って神輿渡御が行われ、盛大にウランバートルの街をかつて日本人捕虜が作ったとされるスフバートル広場まで担ぎ上げられました。
かつて日本人の強制労働者によって作られたというオペラ劇場にて、担ぎ手として参加した日本人、モンゴル人によって両国の国家斉唱が行われました。
かつての敵国同士だった両国が、時代を超え共に平和を願う日を作り上げることが出来ました。今回の出来事について、現地で感じたことや訪れた場所について振り返ってみようと思います。
スフバートル広場
今回、会場を出てお神輿の目的地となるのはウランバートル中心地となるスフバートル広場です。
スフバートルは1923年に亡くなったモンゴルの革命家、英雄で広場の中心に大きな像が建てられています。
像と共に刻まれた
「我が人民がひとつの方向に、ひとつの意志に団結するならば、我々が獲得できないものはこの世にひとつとしてない。我々が知りえないものもない。できないことも何ひとつとしてない。」
の言葉は独立へ向けた力強い団結を示しています。
1924年に成立したモンゴル人民共和国の独立のために活躍しました。
このスフバートル広場を含め現在のウランバートルに残る約30の建造物の工事に第二次世界大戦後捕虜となった日本人が関わり、政府庁舎、オペラ劇場、外務省、ホテル、映画館などが含まれています。
ダンバダルジャー日本人慰霊碑
戦後ソ連によってシベリアへ抑留された日本兵は約60万人。
そこからモンゴルには1万3000人余りが分けられ、1700名ほどが亡くなったと言います。
厳しい寒さと過酷な労働環境の下、終戦の知らせを聞いても帰国出来ないままモンゴルに眠ることとなりました。
ウランバートル郊外のダンバダルジャーにはかつて一番多くの日本人が葬られていた日本人墓地がありました。
現在では遺骨は日本へと返還され、慰霊碑が建てられています。
手向けられた一本の木柱にはこんな言葉が刻まれていました。
「諸氏よ 祖國日本は 見事に復興しました
モンゴルに 安らかに 眠ってください」
丘に向かうように建てられた慰霊碑下の円形に囲まれた空間の壁には桜の陶板が並んでいます。
日本の方角に建てられた慰霊碑とそのモニュメントは、太陽の光によって壁面に日本国旗を描き出すそうです。
マイナス20度を下回るモンゴル、粗末な設備、食物、住環境しか用意されなかった中、戦争が終わっても帰国することが出来ず強制労働させられた多くの日本人がここに眠っていたことを感じると、平和な時代に生まれ両国の平和を願って神輿渡御の式典を行う意味を深く考えるきっかけになりました。
JAPAN FESTIVAL IN MONGOLIA
今回お神輿を上げるのは、"JAPAN FESTIVAL IN MONGOLIA" というイベントにおいてです。
このイベントは、2018年に前身となるポップカルチャーフェスティバルが開催されてから続けられているもので、モンゴルにおける最大の日本のイベントです。
当日は、伝統文化、日本食、アニメ、マンガ、コスプレなど様々な日本の側面が紹介されていました。
私たちは今年の日モンゴル外交関係樹立50周年の記念事業として招聘され、新たに伝統文化を紹介する機会を頂きました。
ブースとステージ、そしてお神輿の渡御を通して本物の日本文化に触れてもらうことを目的としています。
2日間の日程で、初日は展示と会場となるホワイトロックセンター内のステージでのパフォーマンスを行いました。
だんだんと組み立てられるお神輿に、会場に来ている方々も興味津々です。
担がれたお神輿
今回担ぐことになったお神輿は、東京都板橋区に本部を置く神輿JAPAN所有のものです。
会長の川上さんは、平成30年に行われた天長節奉祝祭の実行委員長をはじめ都内の祭において活躍されていて、映画「とんび」の撮影においてもこのお神輿が使用されました。
今回、神輿JAPANのお神輿が海外へ渡るのは初めてのことです。
川上代表も、同行して頂くことになりました。
遠いモンゴルへいよいよお神輿が到着したのを目の当たりにすると、やはり感無量です。
1日目は渡御予定の2日目に向け、組み立てを行いましたが皆その様子も興味津々でした。
モンゴル側に用意してもらった担ぎ棒とお神輿を接続し組み立てていきます。
日モンゴル外交関係樹立50周年記念神輿渡御
令和4年8月21日。
会場のステージ前にお神輿が運ばれて、神事が開始されました。
玉串奉奠はイベントの主催者をはじめモンゴルの方にも参加して頂くこととなりました。
担ぎ手は現地モンゴルの方々です。
初日に展示されていたお神輿を見て興味を持ってくれた学生や、主催の方がお声がけしてくれた方々など多くの方に集まって頂く事が出来ました。
ホワイトロックセンターから、目的地となるのはスフバートル広場です。
かつて日本人が強制労働させられていたという場所へ、時を超え日本のお神輿が初めて向かうことになりました。
モンゴル人も興味津々!
会場を出たお神輿は、ウランバートルの警察同行の下、公道を担いでいきます。
ただでさえ交通量の多い道。
近くを車が走り抜けていきますが窓から写真を撮ったり、こっちを向いて掛け声に合わせ手拍子をしたりしてくれています。
威勢良く担がれて行くお神輿は多くのモンゴル人の興味を引いているようです。
「何でこんなに遅いんだ!」
と苦情を言っていた警察も、だんだんとお神輿がゆくと皆写真撮影を始めたりしていました。
コースは短いですが、日本からはるばる運ばれて来たお神輿がこうしてウランバートルに到着し、一生懸命に担がれて行く姿は感慨深いものがあります。
一歩一歩噛み締めながら、楽しそうに担いでくれるモンゴル人の皆さんの表情を僕は悦ばしく見ていました。
スフバートル広場へ
いよいよお神輿がスフバートル広場に到着しましたが、広場はイベント設営中で、中に入ることは出来ません。
広場外をお神輿は行き、いよいよゴールとなります。
スフバートル広場からはお神輿はトラックに載せられ本部ホワイトロックセンターへと戻る予定になっていました。
スフバートル広場にて柝入れをするのは川上さん。
初めての海外渡御、川上さんも感慨深い表情です。
ずっと練り歩いて来たみんなはすでに心が一つとなっています。
迫力のある輿納めとなりました。
当初、広場にて両国の国家斉唱を行う予定となっていましたが、イベントの設備が広場中に並んでいたので保留としました。
納められたお神輿はトラックが待つ方へと運ばれていきますが、肩を入れたモンゴル人はまだまだ元気にわっしょい!わっしょい!と声を上げています。
そして急遽、広場脇に建設されているオペラ劇場へと立ち寄ることにしました。
このピンク色のオペラ劇場は、抑留されていた日本人が設計から関わり作り上げたものだそうです。
入り口に掲げられた彫刻には、モンゴルの民族衣装を着た姿と、弁財天、不動明王のような意匠も見られました。
現地モンゴルのガイドに聞いても、「左二つはわかるけど右二つはわからない」と言っていたので、当時の日本人が意識的にデザインしたのかも知れません。
両国国歌斉唱
私たちは、約70年前まで敵国として対立する立場だった両国が、時代を超えて今に至り、共に友好を望みお神輿を担ぎ上げる事が出来たことに大変喜びを感じました。
ご先祖様の息吹の残るこの場所で、一日共に神輿を担いだ両国の仲間たちと歌う事が出来るのは意味深い事だと思います。
胸に手を当てて高らかに歌うモンゴル人の姿に感銘を受けました。
我々日本人も先祖を思い、共に両国の友好を願って国歌を歌う事が出来ました。
本当に貴重な経験となりました。
戦争が終結したのに帰国できなかった日本人の中には、故郷の祭を思っていた方がいたかも知れません。
初めてウランバートルでお神輿が上がった日。
色んな感情が芽生えてきました。
お神輿はスタート地点、ホワイトロックセンターへ
オペラ劇場を離れたあと、お神輿はトラックに運ばれメイン会場へと戻りました。
最後の輿納めは、主催である会場の皆さんと担ぎ上げる約束です。
イベント主催者である中村さんは、実は大の神輿好き。
モンゴルに来る前、日本ではよく担いでいたそうです。
イベント開催中は運営に集中しなければならなかったものの、ステージの演目が終わればガッツリと担ぐ事が出来ます。
輿納めにはモンゴル人、日本人お互いに声を張り上げ、協力してお神輿を担ぐ事が出来ました。
三本締めののち、もう一度国家斉唱、御霊おろしです。
現地の日本人が両国の国家を歌っていた姿が印象に残りました。
恭しく神事を終え、日モンゴル50周年記念となる神輿渡御は完遂となりました。
モンゴル神輿渡御youtube前編
モンゴル神輿渡御youtube中編