前回,ブルガリアに語り継がれる伝説のサムライ,山澤静吾について書きました。
その後,露土戦争(ロシア=トルコ戦争)からブルガリアがどのように変遷していったかを追ってみます。
サン=ステファノ条約
露土戦争において,ロシアの勝利ののち,ロシアとトルコの間の講和条約としてサン・ステファノ条約が結ばれます。
サン・ステファノ条約の中で,
・セルビア,ルーマニア,モンテネグロの独立
・ブルガリアの自治権
を求めます。
この時のブルガリアは,マケドニアを含む大ブルガリア公国と呼ばれエーゲ海まで広がり,ロシアが渇望していた不凍港を手に入れることを意味しました。
これはロシアがバルカン半島から西アジアへ,黒海から西地中海へと進出してくることになり,当時西アジアとインドに権益を持っていたイギリスにとって脅威でした。
そのため,イギリスは,この条約を認めず,国際会議による解決を訴え,1878年4月イスタンブル近海への海軍艦艇派遣,1878年5月マルタ島への英印軍派遣を行い,ロシアに対する軍事的威嚇を強めました。
『秋田茂(1988)「インド軍海外派遣問題とイギリスの帝国外交政策―一八七八 - 八三年―」『西洋史学』152,38-55 頁』
「公正なる仲介人」鉄の宰相ビスマルク
サン・ステファノ条約に猛烈に反対していたイギリスとオーストリア=ハンガリー帝国の調停をすべく,ベルリンにロシア、オーストリア=ハンガリー、イギリス(ディズレーリ)、トルコ、ドイツ、フランス、イタリアの六カ国会議を開催しビスマルクはその議長を務めました。
ベルリン会議(Congress of Berlin 1876/6)
ベルリン会議実行に関し,ビスマルクが調停役を引き受けることになりましたが,当初ベルリンで会議を行うことは,しぶしぶ受け入れたようです。
当時の外相ビューローへの電報の返信として以下の記録が残っています。
「私は会議開催地としてベルリンを好まない。それは私の体調が優れない為のみならず(中略)しかしながらベルリンを選ぶことによって,ウイーン,ペテルブルグ側の了解が成立し得るならば,私は,オーストリアが進んで同意をあたえ次第直ちに,皇帝陛下に対しドイツ側には異論はないということをお認めくださるようお願いする。」
「第三国の会議開催地に関して,オーストリア,ロシア側の了解が成立出来るとするならば,私の考えでは,我々は会議に参加する資格のある全ての列強が代表者を有する場所を選定せねばならぬ。それがウィーンでないとすれば,厄介であるにもかかわらずとにかく,ベルリンあるいはパリである」
『田中友次郎「伯林會議に於けるビスマルクのロシヤに對する態度について」(1952)』
こうしてビスマルクはヨーロッパの平和維持という一大目的の為にやむなく会議の開催を受け入れたようです。
ベルリン条約
ベルリン条約によって大ブルガリア公国は3分割され,ロシアはエーゲ海への港を失ってしまいました。
・マケドニアはトルコに返還
・ベルカン三国(ルーマニア・セルビア・モンテネグロ)の独立は承認
・ボスニアヘルツェコビナはオーストリアが統治
・イギリスはキプロス島を獲得
こうして現在のブルガリアの姿になっていきます。