「祭の男」宮田宣也のブログ/明日がもっとスキになる

今,守るべき,つなぐべきこころって何だろう。祭の男,宮田宣也の祭ライフと,祭哲学について。

鳥居の前で一礼しないってダサいと思わない?〜神輿をベルリンへROADTOBERLIN②〜

街を歩いている時,鳥居の前で一礼する人の姿を見たことがありますか?

そしてあなたは,鳥居の前で一礼したりしていますか?

その理由について,考えてみる。

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鳥居,とは

まず,鳥居とは何か。

鳥居は,門である。入り口。

神社は「結界」により神域が囲まれており,俗界と分断されている。

その入り口となるのが鳥居だ。

その奥に,社があり,その奥の本殿には御神体が祀られている。

つまり,何故人が鳥居の前で一礼するのか,と言えば神前を無視して通り過ぎるのは失礼であり,当然の敬意を示すため。ということだ。

それは神様の崇拝であり信仰心の現れであるのかも知れない。

が,僕はその前にもう少し違う理由を持って一礼するようにしている。

美しい日常風景

僕が鳥居の前で一礼するのも,新しい土地へ行けばなるべく土地の神社に挨拶するのも,同じ様な理由がある。

僕が神社へ行くのも,鳥居の前で挨拶するのも,その理由は「神様の信仰」というわけではない。

鳥居の前で一礼するおばあちゃんや,おじいちゃんの姿を見たことがありますか?

もしかすると,現代ではそんな姿を見ることは少ないのかも知れない。

だけど僕は鳥居の前に立つとそんな人たちの姿が目に浮かぶ。

それは,お正月の初詣かもしれない。

それは,節分の日かもしれない。

それは,子供達が育ち,着物を着て訪れる七五三の日かもしれない。

それは,大切な人が病気になって神社へ祈りに来た日かもしれない。

それは,戦争へ行く日,土地の神社へ誓いを立てた日かもしれない。

それは,お祭りの日,たくさんの人が集まって楽しい1日を作った時かもしれない。

それは,あなたが生まれた日,喜びを報告しに行った日かもしれない。

そんな何千,何万の人達が数百年に渡りその鳥居の前で一礼をしていたのなら。

それは宗教観の違いとか,思想の自由とは別に,そんなたくさんの人たちと思いに敬意を表し,当たり前に頭を下げようと思う。

それは日本でなくても,海外へ行っても土地の人が大事にしているものだったら,当たり前に手を合わせようと思うし,挨拶する。

そして僕は,そんな風景を美しいと感じる。

日本の文化は,美しい。着物,書道,茶道,華道,禅。

しかしそれだけでなく,道行く人が,土地の人が大切にしている場所,神社の前で,お寺の前で,一礼をする。

鳥居の前で一礼しないってダサいと思わない?

行動は全て選択であり,その人の価値観だ。

僕は「鳥居の前で一礼をしない」という行動は,個人的に大変「ダサい」と感じる。

何度も言うが,それは信仰心とか,神様だとか言うこと以前に,そこにいる地元の人達や思いを感じて,ただ「お邪魔します」「こんにちは」「いつもありがとうございます」という気持ちだけだ。

それは,タイの寺院だろうと,フランスの教会だろうと,同じだ。

バスや電車で席を譲らない,お年寄りに親切に出来ない,挨拶をしない。

そういった行動の選択を,僕はダサいと思う。

僕はその人の行動に対して議論するつもりもないし,価値観や考え方の違いは往々にしてある。

それを非難しているのではなくて,ダサい人間になりたくないから,ダサいと思われたくないから,僕は行動を選択している。

「挨拶をしない」という行動を,道行く子供達は見ているかも知れない。