近年,日本文化が注目されている。
しかし,クールジャパンの名の下に,取り上げられるのは高尚な貴族や侍の文化だ。
外国人向けの美しく洗練された日本文化だけを見ていると,文化は日常から乖離していく。
日本人の文化的アイデンティティを保つ為には,茶道や書道を高尚で扱い辛い異世界の文化にするのではなく,日常にいかに取り入れていくかが重要だ。
一流の先生に習い,一流の道具を揃え,着物を着て,一流の空間で嗜む「贅沢」で「非日常」な風景でなく,子供達がその辺で走り回り,下駄を履いて泥んこになりながら羽根つきして顔に落書きする・・・
そんな風景がそこら中で見られる方が,パワフルで豊かだと考える。
文化は,学ぶものでなく楽しむもの。
「一流」や「本物」を高価で非日常的な物だ,と思ってしまっては日本人の生活を楽しんでいるとは言えない。
日常を楽しむことに長けている日本人
日本には,四季がある。
元来,というか今でも普通にそうだが,僕らの生活は自然とともにある。
そして,全てが一年に一度,だ。
それは「儚さ」と表現される。
日本人の文化は,季節を最大限楽しむ。
例えば,春。雪解けの季節。
ふきのとうが頭を出し,梅がつぼみを開く。
鶯の声が聞こえ,桜が花をつけ始める。
山にはわらび,たらの芽,こしあぶらなどの山菜が顔を出し,タケノコも生え始める。
そんな,ひとつひとつの風景が美しく,嬉しい。
そこに喜びを見出し,自然のリズムとサイクルに乗っている。
そして,季節が終わった後の「待ち遠しさ」が来年の喜びに繋がる。
日本の日常には,最高級の喜びがある。
一年に一度,全く同じことを全く同じような仲間と続けていくことが,日本人の習慣には極めて多い。
それは,四季があるからだ。
トラディショナルポップカルチャーとしての日本文化
庶民である僕は,庶民の文化としての日本文化を愛するし,それを最高に慶ぶ感性が染みついている。
僕は茶道も書道も華道もやった事は無いが,
お茶を飲むことも,字を書くことも,花を愛でて最高に豊かな時間を感じる事が出来る。
日本文化はもっと自由で,身近なのだ。
明日,道を歩いていたらサザンカが咲いているかも知れない。
その花を愛で,一本だけ家に持って帰って活けてみる。
そのサザンカを見ながら,冬野菜がたくさん入った鍋を仲間とこたつでつつき,日本酒を飲む。
それが,日本文化だ。
これからたくさん白菜が取れる。
白菜を柚子と鷹の爪と柿の皮と昆布と塩で漬け,近くでとれた炊きたての新米の上に乗せ,七味と醤油を一滴,垂らして食べる。
クールジャパンとはかけはなれているのかも知れないが,これも日本文化の真髄である。
「道」と表される美と無駄を省く極致である日本文化。
しかし日本人のこころは,そういった「嗜み」だけでなく,昔から変わらない,トラディショナルポップカルチャーとしての日本文化もあるのだ。
日本文化を楽しむ事に,お金も,時間もいらない。
明日,空を見上げてみれば,明日,道端の花を見てみれば。
そこに入り口があるはずだ。
もっと日常を楽しもう。
日本には,日常を最高に楽しむ手法が数多く,あるのだから。