「祭の男」宮田宣也のブログ/明日がもっとスキになる

今,守るべき,つなぐべきこころって何だろう。祭の男,宮田宣也の祭ライフと,祭哲学について。

神棚と大学

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先日,おかしなことがあった。

おかしな事だ,と瞬間的に思ったが何故そう思ったのか分析してみる。

神棚を発見

僕が通っていた大学の学生控え室に神棚があった。

誰かが置いていったものだろう。

構内で打ち合わせ中,それに気づき,日本文化を扱う学生に提案した。

「せっかく神棚があるんだから,お祀りしたら?」

と。

その時は大変納得し,氏神様の所へご挨拶へ行ってみます,と言っていた。

しかし,学生は氏神様の所へ行く前に,大学事務へ行ったようだ。

「大学にはたくさんの信仰を持つ人がいて,特定の神様を祀ると,全部の神様を祀らなければ不公平なので,禁止します。」

だ,そうだ。

その後,学生は頑なに神棚を祀ることを拒否した。

僕はこれを「おかしなこと」だと感じた。

何故か。

 

神道を他宗教と並列にすることの無理が生ずる。

祭をやっていて思うが,神道を宗教と捉えると日本の神社,祭礼,神様は非常に理解しがたい。その辺りの議論はまた別の機会にするが,前提として,そう考える。

今回のケースは,一般論,つまり「大学事務」は,神棚をお祀りすることを宗教行為,と捉えている。

しかし,日本人の感覚として,新しい土地へ来て,毎日生活している土地へ感謝するという意味で神社にお参りをする。

多くの先人の秩序と努力により土地が平穏に保たれ,日々が形成されていることを知っているからだ。

今回の場合,大学という新しい場所へ来て神棚をお祀りする,神社へお参りすることは,宗教行為と考えるのでは無く,余所者が新たな土地へ入る事の礼儀,と考えたほうが合点が行く。

少なくともその土地を守り,作り上げてきた先人が日々心を寄せ,大事にしている場所を外から来た 余所者 が「宗教が違うので」と無視する事は直感的に非常に違和感がある。

一般論としての神道

公的機関である「大学」が主張するのは 一般論 であり ニュートラルな社会常識 であろう。

今回,個人的には非常に違和感を感じたが,拒否され,実行出来ない理由は理解できる。

しかし,大きく問題なのは生徒たちが主張に対し簡単に受け入れてしまったことだ。

そこに疑問を抱かず,「大学」に言われたので出来ません,と諦めてしまうことは,「精神性の喪失」ではないか。

自分たちが気付かないうちに社会常識は構築されている。

こうやってひとりひとりの感覚は支配されていくのかもしれない。

お祭りを継承していくために,まず一人一人の日本人の一般的な感覚の変化を敏感に分析し,捉えなければいけない。